本と山とハンガリー人 Books, Mountains and a Hungarian

好きな本と山、そしてハンガリー人について語るブログです。

ターミノロジー学とツールと、編集と。

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仕事で必要になったことから、ターミノロジー学に関する本を読んでいる。

なかなか面白い。ターミノロジーは英語で書くとterminologyとなり、"term"という用語に関する学問、と捉えることができると思う。検索、翻訳などをスムーズに行うために役立つ学問の分野で、図書館学などとも近い。

また、用語を分類する方法などについて考えることから、言語学との隣接分野なのだけれど、違いもあって。基本的に言語学と違って文脈は加味せず、概念にフォーカスして考えるそうだ。その辺はヴィトゲンシュタインとか哲学的な要素も入ってきてしまうけれど。。

実用的なことでいうと、電子辞書やオンラインシソーラスのベースにあるもので、例えばカナダで英仏、オーストリアで数カ国語など、マルチリンガルな環境で発展したらしい。同じ概念の言葉、用語を違う言語でぶれなく紐づける必要が、多言語国家には確かにある。

ぶれなく概念を一つの用語にゼロイチで紐づけるから、人工知能が言葉を認識できるようになるときにも重要で。確かに、ボイスアシスタントのグーグルホームやアレクサなどの進化にも不可欠かも。ボイスアシスタントのアルゴリズムを訓練するには、言語情報をまずパソコンもしくはアルゴリズムが読めるテキスト情報に音声から変換することが必要だけれど、そこからどう言語として認識させていくかは、ゼロイチで紐付けられる形態である必要がるのでは。。と素人考えながら思う。

そしてもちろんターミノロジー学は、辞書を作ったりオンライン類語辞典を作ったり、翻訳メモリやマシントランスレーションには不可欠な基礎となる部分であり。。

私は言葉や文章に興味を持ち続けて生きてきて、その周辺で仕事を長いことしているけれど、言葉そのものや用語そのものよりもストーリーやナラティブへの興味がずっと強かった。でもこのターミノロジーのことをかじってみると。。パソコンやスマートフォンが普及することで人が使う言葉や書く文章が変化したように、文章や言葉がそれを紡ぐツールから影響を受けることは大いにある。同じような文脈で、一言語内だけでなく他言語への置き換えについては、ターミノロジーの管理の仕方によって、特定の言語内で今後も使われ続ける言葉、使われなくなっていく言葉が生まれるのだろうな、と思う。

例えば明治や大正の頃に西洋から入ってきたタームで日本に概念がないまま無理やり訳された用語はぎこちない感がある。その頃と比べて情報技術の変化によって、科学技術などに関する新しい概念は当時より素早く違う国や言語に伝わるようになったと思うけれど、でも文化的に、違う言語において存在しない概念というのは存在し続ける。ターミノロジー学はそういった概念が当該言語にない場合にどうアプローチすべきか、といったことも研究の対象となっているそうだ。

 

私はつい先月まではイーラーニング、オンライントレーニングを企画して、ナラティブを考えてオンラインビデオやオンラインテストを作るという仕事をしていた。現在は多言語の翻訳プロセスにおいて、翻訳メモリーやマシーントランスレーション、タームデータベースをどうやって最適化するか、といった仕事に携わっている。

なんかえらい違う畑の仕事に就いたね、と言われることもあるのだが、私の中では、コンテンツや文章を生み出す部分に関わる仕事、ということでは変わっていない。そのスケールや、成果物の種類や、関わるスタンスが違うだけ。随分大きな違いとも言えるかもしれないが。

元々は記者や編集者、コピーライターとして純粋に文章を書くところをやっていたので、それと比べると何となく遠くに来たな、という感じがあるのはまあ、うなずける。でもね、やってることは一緒なの。自分の中で。編集で企画を立てて、企画を通して、企画の具ー写真や記事の一部やデザインを内部や外部の人にお願いして、撮影場所を押さえ、全体を進行させながら自分で記事も書く。企画を考えるのは時間がかかるけど、面白いアイデアが出て来たときはやった!って思うし、それを形にしていくのはしんどいけど、楽しい。形になるとうれしい。

基本的なスタンスは本当に10年以上前に紙の媒体を作っていたその時と変わっていなくて。でも自分では意図せずに、少なくとも一回は、時代の波に乗ったのかなと、今振り返ると思う。紙媒体の衰退が言われる中で。でも衰退衰退と言いながら、縮小しつつも生き残ってはいるけどね、紙媒体。

それはそれとしても、ここ十年で私は完全にオンラインのコンテンツを作る人になった。ここ数年ほどで、言語も日本語フォーカスから離れた。日本語フォーカスから離れたい、という日本語の文章読むのも書くのも大好きな自分からするとアンビバレントな思いは、シンガポールで働いていた2010ー12年にさかのぼるのだけれど。

自分の中で大きな変化だな、と思うのが、ライター時代には文章が成果物の中心だったのが、ツールの進化とともにツールをどう使えば自分の作りたいコンテンツをそれにより近い形で実現できるのかを考え、実行するようになったこと。ナラティブやストーリーを企画として紙の上で考え、それがストーリーとして形になっていた仕事と比べると、今考えている企画は、世の中に出るときにはストーリーの形はしていないかもしれない。でも、こういうことを実現したくて、手元にこの材料とこのテクノロジーがあって、どういう筋書きを描けばその企画が実現できるのかを、考えている。それって、私にとってはやっぱりナラティブなんだなあ、ある意味、と思う。

常に二、三年で違うことをやりたくなる熱しやすく冷めやすい私だが、今は、言葉やターム、文章とテック、ツールを組み合わせてうんうん考えるのが仕事で、難しいんだけど、結構楽しいみたい。文章に気持ちを入れたりするのではなくて、マクロで言葉のかたまりを動かしていく、感じなので、今更高校数学の箱ひげ図とか、統計の勉強とかしたりして。数学の証明って、高校の時好きでも嫌いでもなかったんだけど、もうちょっと興味持ってやってたら楽しかったのかもな、と思ったりする。どうかな。