共産主義とリオの話
彼との出会いについて、鮮明に覚えている。
たぶんある程度美化されてしまうし、良いところだけ覚えていることもあるだろうけれど…。私は、シンガポールのワーキングビザの更新ができなくて、ある意味失意のまま日本に帰ってきたところだった。寒い、大雪が珍しく降った東京へ。
関西出身の私にとって、出張では何度も来たことがあっても、初めて住む東京だった。
シンガポールを去る際には、恋愛とまでも呼べないようななんとなく荒んだ感じの数ヶ月の付き合いだった外国の人とパッタリ別れていて、東京には知り合いも友達もあまりいなくて、寄る辺ない感じだったのを覚えている。その元彼から、知り合いの中で最高に面白くて最高に頭がいい友人が日本に遊びに行くから案内してやって、と連絡をもらったのが、彼だった。
その時すでに、彼はかなりの数のブログを投稿していたので、実際に東京で会うまでにブログを読んで、その中のミニマリズムとノマドライフについてのポストが、ものすごく響いたのだった、ものすごい美しく、しかも生き方が潔くなんと聡明な人なのだろう、と。
http://semi-adventures.com/2013/03/things-i-do-not-have/
会ったのは東京駅で、蕎麦屋さんに行った。蕎麦がきを注文して、初対面だったけれどすごく色々な話をしたー共通点がいくつかあって、初対面と思えないくらい話が弾んだ。共産主義にゆかりがあることや、ブラジルに行ったことがあること。彼はハンガリーで生まれ育ったので、小学生の頃にソビエト連邦が崩壊して、社会がガラッと変わったー例えば、第二外国語はロシア語が教えられていたのが、次の年からロシア語の先生がいきなり英語を教えないといけなくなった、など。私は父母が京都の共産党で出会ったという話をした(その頃は活動がすごく盛んで流行りのようだったのだ)。
そして何より強烈だったのが、彼のブラジルや南米での暮らし方、働き方だ。ノマドな働き方、というのは日本でも一時期話題になったが、彼はその先駆けだった。シンガポール国立大大学院でPhd論文を書いていた頃から、専門分野コンピュータサイエンスという化学のように実験装置などがいらない分野だったために、インドにしばらく滞在していた時に大学に戻らなくても事足りることに味をしめた。Phd論文をを2年半という短い時間で提出してからスウェーデンの大学にポスドクとして籍を置きながら、2年半に渡って南米を、9キロの荷物だけを自身の全財産として携行しながら旅しながら働き続ける(ちなみに飛行機に乗るときは荷物のチェックインは絶対にしない派で、9キロの荷物はギリギリ持ち込んでいたそうだ)。
ブラジル・リオデジャネイロにファベーラというスラム街がある。学生時代に3週間ブラジルを旅した私は、現地の友達がリオを案内してくれたとき、夜にファベーラの光を遠くから見て、無数の光が灯っているさまを夜空の星のようにちかちかして綺麗、と強烈に感じたことを覚えている。その一つ一つが生活の光であることは、まるで幻想のようだった。
そんな私の平和ボケな感想とは裏腹に、彼は半年間、ファベーラ「で」生活しながらコンピュータサイエンスの研究を続けた。一体どうやってファベーラに住むことになったのかと問うと、ファベーラの中では縄張りがあり、それぞれにドンのような、酋長のような有力者が存在する。皮肉なことにファベーラでもすでにワイファイは普及していたが、その酋長は、自分の縄張りのワイファイが機能しておらず、困っていた。そこでーそのワイファイを直してくれたら、しばらくそこに置いてくれる、という「取引」を、彼は持ちかけられた。一度はアメリカのCIAからも高額のオファーをもらったことがある(受けなかったが)彼にとっては朝飯まえのことで、コードを たやすく解読し(cracked the code)、その縄張りのバラックの上に彼自身のテントを設営する権利を得た。
それで、一体ぜんたい酋長とどこで出会ったの?と尋ねると、その答えは何ともはや、クレイグスリスト。クレイグスリスト(https://tokyo.craigslist.org/)とは、オンラインでいらないものを売り買いしたり、ルームメイトを探したりできるコミュニティサイト。日本ではそれほど知られてはいないが、欧米や英語圏ではよく使われている。
なんともはや、想像だにしない冒険譚のような数年にわたるノマドライフ(その間大学や研究機関に所属し続け、無職であったことは一度もないという)のワイルドな話のオチが、クレイグスリストとは。あまりにも華麗で段差のあるオチが用意されている話の展開に、私はすっかり引き込まれてしまったのだった。