本と山とハンガリー人 Books, Mountains and a Hungarian

好きな本と山、そしてハンガリー人について語るブログです。

 「エヴェレストより高い山」ジョン・クラカワー ”A Mountain Higher Than Everest” by Jon Krakauer

 「エヴェレストより高い山」ジョン・クラカワー 

”A Mountain Higher Than Everest” by Jon Krakauer

 

f:id:pinappletart:20191123234717j:image

エヴェレストより高い山」を読んだ。

ジョン・クラカワーは、山や冒険好きな人なら知っている(ことが多い)アメリカのノンフィクション作家。「荒野へ」"Into the wild"や、「空へ」"Into Thin Air"がよく知られた彼の代表作。両方とも映画化された。特に「空へ」はエベレストの遭難事故を本人自身が当事者として経験したことをドキュメンタリーとした本で、この本を題材とした映画も複数製作されている。

 

彼自身が登山にものすごいハマった若い頃を過ごし、実際に「デヴィルズ・サム」というアラスカにあるある新ルートを単独初登攀した実績のあるクライマーだった。現在は、ドキュメンタリーはモルモン教信者によってなされた殺人事件など、登山やアドベンチャーに限らないジャンルもカバーしているライターである。

 

その彼の原点とも言えるこの短編集は、超簡潔にいうと(笑)、すごく良い短編集だった。ヨーロッパのシャモニや北米のデナリ、エベレスト、K2など、世界中の有名な山をめぐるエピソードが、本人の体験も交えて、かつ登攀者としての視点も強く保ちながら描かれている。山や冒険への挑戦を通じて命を落とす者も少なくないことも語られる。そして何より、若くて何も自信も実績もなかったクラカワー自身が若さゆえの不安定さを抱えながら、抗いがたい山への情熱に動かされていたことが、彼自身の心情描写から窺われる。単に山の楽しみを描いた作品ではなく、本人の葛藤が山を通じて語られることが、登山経験の有る無しに関わらず、読み手が各物語に惹きつけられる大きな理由となっていると思う。

例えば、ヨーロッパのシャモニで登山前の心情を、彼はこのように語っている。

>>>

「シャモニの休日」

晴れた日の昼下がり、私はシャムのダウンタウンにある「ブラッスリー・レム」のテラスに腰を下ろし、ストロベリー・クレープとカフェオレを前にして、自分はこんな限られた才能で、あまりにも平凡な今の人生から抜け出せるのだろうかを考え込んでいた。

>>>

今となってはクラカワーはアメリカを代表するドキュメンタリー作家だが、駆け出しの頃、もしくは文章を書き始める前はこのような青い、もしくは英語ではgreenかつinsecureな青年であったかと思わされるくだりだ。

 

私も、山が好きだ。とは言っても、本格的な技術が必要なレベルの登山の経験はない。英語でいうとHikiingレベルで、Mountaineeringの領域には踏み込んでいない。日本語で「ハイキング」というとピクニックのような互換があるが、英語のHikingは日本語でいうと登山、の意味合いがある。私は、国内だと槍ヶ岳北穂高岳北岳、赤岳、谷川岳瑞牆山などの3000メートル超の山に毎年登っているし、富士山には標高0メートルから頂上まで登ったこともある(通常は2000メートル超の五合目までバスで行ってそこから登る)。ただ、冬山ではないので難易度は高くない。海外の山にも行っているが、登りやすい山ばかりなので、4000メートル強のマレーシアのキナバル山、台湾最高峰の玉山(3952メートル)などにも登った。どう見積もっても、登山家やMountaineeringからは、程遠い。

ただ。。山にどうしても行きたくなる気持ちは、少しはわかる、、と思う。

高度順応が必要なヒマラヤやエベレストなどにはまだ行っていないけれど、これまでいつか。。機会があったら。。というような気持ちでそういった数週間から数ヶ月以上かかる難しい登山に挑む友人たちを見ていた。

 

でも。この本の中の短編「双子のバージェス」「K2の不幸な夏」などにも出てくるように、チャレンジを含む登山に挑む人たちの何パーセントかは、死ぬ。日常生活で交通事故に遭う確率よりおそらくだいぶ高い確率で。

 

映画にもなったクラカワーの小説「荒野へ」(現代"Into the wild" )は、若いアメリカ人の主人公が、文明社会に疑問を抱き、広大な大自然の中で自分ひとりで生きることができないかを試してみたくて、実際に試してみて、その過程で自然による難しい出来事に予想外に見舞われ、街に帰ることができなくなり、飢餓状態のまま亡くなるという悲壮な最期で終わる話だ。

10年くらい前に私はこの映画を見た。そのときの感想は、「この人、あほやな」だった。裕福な家庭に生まれて、ハーバード大学大学院の入学を許可され、高い学費を親が用意してくれて、恵まれてある意味何もかもを持っているのに、あえてアラスカの荒野を目指し、自然のまさに「ワイルド」さに直面し、自然というものになすすべがなく圧倒され、命まで奪われてしまう。。

青い青春時代ー若者の時はそういったことに憧れる気持ちがあることは理解できる。私も物質的豊かさを追わない生き方に憧れていた若い時期もあったから。でもー裕福な家庭に生まれて良い将来が約束されていてーそれを期待通り生きるのがつまらないと感じたとしても、自分が与えられているその物質的かつ社会的豊かさを軽視するのもまた、若さゆえの傲慢だと感じ、私は、痛烈に「あほやな」と思ったのだった。

 

最近のことだが、私は、今までの人生のなかでいちばん親しい人たちのうちの一人を、山で失った。当たり前かもしれないがーー彼に対しては「あほやな」とは露ほども思わなかった。彼自身がどうしてもやりたいことを実行したことは幸せなことだったのでは、と思うし、そのように信じたいし、信じている。「荒野へ」の主人公に関しても同じことが言えるかもしれない。予想外の悲しい結末に至ってしまったとしても。

彼の死もしくは遭難以来、私が考えていることがある。人間は今の今楽しいのか、幸せなのか、美味しいのか、苦しいのか、悲しいのか、空腹なのか、という感情と今、ここ、の体験に支配されてしまう生き物だけれど、実は、それは人間の認知の一つのパターンに過ぎず、例えば今すごく病気に悩まされていたとしても、1年前健康でとても楽しく幸せな時間があったとしたら、その時間の存在自体や事実は一ミリも薄まらないし、それはそれとして、記憶としてなのか、その空間と時間を満たしたこととして存在し続けるのではないか、ということだ。少なくとも、そう考えることで、私は私自身の人生にも、命が失われてしまった近しい友人や大好きだったけれど既に亡くなった父の人生に対しても、デッドエンドではなくもう少し温かい視点で捉えることができるかもしれない、と思う。それが翻って、自分の人生の素晴らしかったり美しかったりする時間を、過ぎ去っていくものとしてではなくピン留めされたものとして持ち続けて、生きていくことができるなら、と考える。

 

クラカワーは、エベレスト遭難事故に当事者として巻き込まれ、でも自身は生還して、その後しばらくして登山から離れた。そしてエベレストの商業ツアーにルポライターとして参加したことを「人世最大のあやまち」だったと後日語っている。その後彼は、登山に限らず、違うジャンルでのドキュメンタリー作家としてアメリカで高い評価を得るようになる。

私が二十代の時に一緒に仕事をしていたフリーランスのカメラマンは、元登山家で、二十歳になる前、体育会登山部で雪山に登った際に、雪に埋まった友人を亡くした。このカメラマンは、その時から人生を二人ぶん生きると決めて、写真に賭け、二十代で独立した。

 

私はこの人たちのように、事故が起きたとき一緒に山を登っていた当事者ではなく、そんな確固とした覚悟はなく、立派なことも言えない。 逆にいうと、一緒に遭難した当事者であるならば、そのくらいの決意をしなければ立ち直れなかったのかもしれないが。

 

でも、そのように確固とした覚悟や意志を持てず、言えず、立派な振る舞いもできない私も、大切な人たちとの記憶が流れて薄まっていくのに抗い、その時その時の記憶が彼にとって、その人にとって幸せだったのであるならば、覚え続けているようでいたい、とだけは思う。そして覚えているようにすることで、自然はほんとうに厳しく私たちは自然の一部として生かされているということや、また人生にはほんとうにほんとうに限りがあるということを忘れずにいて、自分がまだ与えられている時間にほんの少しだけでもまともに向き合うことに、少しでも意味ある違いをもたらせるようであればいい、と願う。そうすることだけが、今の私にせめてできることだ。