本と山とハンガリー人 Books, Mountains and a Hungarian

好きな本と山、そしてハンガリー人について語るブログです。

映画「MERU」、見知らぬ場所 "Unaccustomed Earth" ジュンパ・ラヒリ/Jhumpa Lahiri著 

「虫の知らせ」というのは果たして、実際にあるのだろうか。日本語では虫が知らせてくれるのか、じゃあ英語の世界では?Premonition、forebodingなどと言うらしい。。どうも虫は関与しないらしい。

 

MERUという映画は、ジミー・チンとエリザベス・チャイ・バサヒリイ監督の、ヒマラヤにあるMERU峰の中でも難度の非常に高い未踏ルート、シャークスフィンに挑む登山家たちを追ったドキュメンタリーだ。ジミー・チン自身がコンラッド・アンカーというアメリカでは有名な登山家と、若手のレナン・オズタークの三人でチームを組み、シャークスフィンに二度挑戦した数年間を描いている。ジミーは中国系アメリカ人、チャイは香港系の母とハンガリー人の父を両親にもつやはり二世のアメリカ人だ。 

 

トレイラーの強烈なキャッチコピーは、"It was worth the risk, it was worth possibly dying for." 

www.youtube.com

 

https://www.youtube.com/watch?v=YvS6O9lVkkg 

映画は、山のシーンだけではなく山に挑む人たちの家族や友人との時間やインタビューも挟みながら進む。ネタバレになってしまうのだが、コンラッド・アンカーは、二十年ほど前に登山のパートナーだったアレックス・ロウを、ヒマラヤ登山の際に雪崩で失っている。休憩をとっていたチームを雪崩が襲い、横に走って逃げたコンラッドは助かり、アレックスともう一人のメンバーは縦に走って、雪崩に飲まれてしまった。彼らの体は17年後まで見つからなかったという。 

コンラッドは、残された妻と三人の小さい息子を気にかけて世話をするうちに妻のジェニファーと恋に落ち、結婚する。

映画の中のインタビューで、妻のジェニファー・ロウーアンカーは、コンラッドとアレックスがヒマラヤ(チベット・シシャパンマ)に旅立った日のことを回想してこう語っている。

"Before Alex left, I had this weird premonition. I did not want him go on a climb. I said, you know I am worried, you gonna die in an avalanche, and Alex said, I always come home."

 

Premonition、もしくは、虫の知らせ。

ジェニファーは、 登山家のコンラッドと再婚したがために、夫がその後も何度もリスクを伴う登山に出かけるのを見送る。インタビューの最後に彼女は、カウボーイの方がよかったかもね、とくすりと笑っている。

"It wasn't like I chose and said, okay, I am gonna fall in love with another climber, It just kinda happened.

I still think I may have been better off with a cowboy(chuckle)"

 

 

「見知らぬ場所」ジュンパ・ラヒリ

Unaccustomed Earth Jhumpa Lahiri 

ジュンパ・ラヒリは私の最も好きな作家の一人だ。インド系アメリカ人で、ピューリッツアー賞を最初の作品で受賞している。インド系の人の人生を描いた作品が多い。

この連作短編集もその一つで、「ヘーマとカウシク」という、幼い頃にアメリカで育ったインド系の男女が、大人になった後に育ってきた環境とは異なる場所で再会し恋に落ちる話だ。

そしてこれもまたネタバレになってしまうのだが。。恋に落ちた後、カウシクはインドで今も行われている見合い結婚が決まっているヘーマに、自分について香港においでよ、結婚は取りやめにしたらいい、と言う。ヘーマは葛藤する気持ちを抱えながらも「もう遅いわ」と答える。

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彼はナヴィーンと結婚するなと言っただけで、彼と結婚してくれとは言わなかった。一方的だ、とヘーマは思う。泣いている彼女の隣で、彼は平然としている。これだから写真も撮れるのだろう。

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そして二人はそれぞれの場所へーーカウシクは赴任地である香港に行く前にタイのリゾート地へ、ヘーマは結婚式が行われるコルカタへ向かう。そして、タイ一帯を津波が襲い、カウシクの行方は知れなくなる。そしてヘーマは、ニュースや共通の知人からその知らせを聞く前に、彼が失われたことを強く実感していた。

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私は元の生活に戻ったのです。あなたとは違う道を行った結果でした。(中略)「ニューヨークタイムズ」に小さく訃報が出たのですね。でも、このときの私は、あなたがいなくなっていることを現実に言われるまでもありませんでした。どうしようもない実感があったのです。私の内部で少しずつ形をとっていく細胞の集合体と同じように、もう間違いのない感覚でした。(中略)

あなたの子かもしれない、という可能性は、この子についてはありません。それだけは気をつけていましたから。あなたは何も残さずに去ったのです。

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Premonition、もしくは、虫の知らせ。。だった、のだろう。

そして、彼女は見合い結婚の相手について、このように語っている。

 

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いよいよ挙式なのですが、もう顔を見たくないと思いました。いえ、裏切ったのは私ですけれども、この人が無事に生きていて、ここにいて、これから来る日も来る日も生きていると思ってしまったのです。それでもナヴィーンは、自分では知らないまま、無理やりというわけではないのに確実に、たとえば晩秋の風が最後まで残った葉を枝から引きはがすように、私をあなたから離しました。

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生きることの残酷さというか鈍感さというか悲しくてもお腹が空くのと同じように、現実というこのもう一つの自然は、否応なく私たちを飲み込んでいく。。それは、生きる上では現実的にとても必要でたくましいということで、おそらく正しくさえあることなのだろうな、と思う。

 

Premonition、もしくは虫の知らせ。

どうしようもなくそのようなものを、私も初めて経験した。2019年9月の最終週の日曜だった。いつも行くジムのランチタイムのクラスに行く気がなんとなくしなくてぐずぐずし、いつもとは違う、午後3時頃にいつもとは違うジムに行き、クラスに出た。運動する気があるくらい体調は問題なかったのだが、クラスが始まってから目の焦点が定まらず、チカチカして、目は見えているのに見ているものの輪郭がぼやけ続ける状態が続いた。飛蚊症網膜剥離とはこういう感じかな?と体を動かしながら思っていた。45分のクラスを終えてなんとか更衣室に戻り、さっとシャワーを浴びた後更衣室の長椅子に倒れこむように寝転んでしまった。体が熱っぽく感じられ、1時間以上その長椅子から動けなかった。長椅子の前にはテレビが設置されており、周りの人からは私がテレビを見ている図に見えていたのではないかと思う。テレビでは京都に新しくできたパン屋さんの特集をしていた。。

その日はなんとか家に帰り、葛根湯を飲んで寝て、次の日には熱は下がっていた。この時の私は友人のヒマラヤ遭難を知らず、5日後の金曜日にSNSの投稿を通じてその事実を知ることになる。またさらにその1週間ほど後にインド時間の日曜の12時頃に雪崩が起きたことを記事を通じて知り、それが目がチカチカした日と重なっていることに気づく。驚き、というよりは、「呼んでいたんじゃないかな」という感覚に近かった。それはPremonitionであるのだろうが、虫の知らせという言葉は言い得て妙だと思う。

 

仕事でのくせなのか、これが起こったことから次につなげるには、これの意味は、とつい合理的な思考のフレームにはめようとしてしまう。昨今では特に、数値だけではなくて、振る舞いや行動のパターンなども仕事上のより良いパフォーマンスにつなげるために自分の傾向を分析したり客観的に観察したりしがちだ。

でも、、、「虫の知らせ」は単にそして全的意味で「虫の知らせ」であり、それ以上でもそれ以下でも今の私にとってはないのであり。仕事のようにPDCAサイクルにはめなくてよくて、雪崩と同じく、単にそれが起こったことを自分が認識するしかないものなのではないか、と、感じている。