本と山とハンガリー人 Books, Mountains and a Hungarian

好きな本と山、そしてハンガリー人について語るブログです。

放出 もしくはan apple pie in the sky

多和田葉子の本「エクソフォニー 母語の外へ出る旅」を読んでいる。エクソフォニーexophony とは、母語以外の言語で文学を書く という意味がある。多和田葉子さん自身が、日本で育った日本人でありながら、大学卒業後にドイツ・ハンブルクに移住し、それからドイツ語と日本語の両方で小説を書き続けている移民文学の騎手だ。

どのエッセイも面白く読んだのだが、中でも面白かったのが、「単語の中に隠された手足や内臓の話」という、ネイティブではない人が外国語の言葉をどう捉えるかについて書いたもの。

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合成語や慣用句などは、中に面白いイメージが隠されていても、普段私たちは、それを気に留めないで使っている。わざと、そこを気に留めてみようというのが、このワークショップの狙いである。外国語を学んでいる時の方が、母語でしゃべっている時よりも、そういうことに気がつきやすい。それは、外国語の単語が母語とは違った分類法で、頭の箪笥に入っているということではないか、とわたしは思う。例えば、母語が日本人である人の場合、「虫の居所が悪い」という表現と「機嫌が悪い」という表現が、同じ引き出しに入っている。日本語が母語でない人の場合は、「虫の居所が悪い」という表現は、「鈴虫」や「虫歯」や「弱虫」という単語と一緒の引き出しに入っている。母語の慣用句の場合は、レストランで出た食事のようなものだから、そのまま食べるだけだ。外国語の慣用句は、生成の過程がなまなましく見えるから、出来合いのお惣菜を買って来たようなもので、そこに自分で大根とか胡椒とか加えてやろうという気にもなる。ナボコフの研究家の人が教えてくれたところによると、ナボコフは英語の慣用句 to cut a long story shortを少しだけ変えてto cut a long story quite shortとかいたりしているそうだ。日本語ならば、例えば慣用句をいじって、「手短なだけでなく、足短に言えば」などということもできるかもしれない。

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日本で生まれ、日本で育って日本語の教育を100パーセント受け、さらに新聞や雑誌に「正しい」日本語を書く職業訓練を受けた私は、短歌や詩、コピーライティングなどで日本語と格闘して言葉遊びをしようとしても、あくまで「正しい」日本語を崩すところに一切気持ちも頭も回らなかった。上記の「手短なだけでなく、足短に言えば」は、一方で足ではなく違う体の部位を当てるべきなのではと感じながらも衝撃だった。

会社の同僚に帰国子女で、北米に住んでいた期間が長く、両親はともに日本人なのだが英語の方が言語としては強く、日本語は口語的に話せても読み書きが極端に弱く、話し方も日本語が上手な外国人に一瞬は思えてしまう感じの女性がいる。彼女を交えて私を含め5人の日本人で会議をしていた時に、そのうちの一人が「それは絵に描いた餅ですよね」と言い、彼女は全く理解していない顔をし、私がとっさに「a pie in the sky」のことね、英語では、と助け船を出したことがある。例えばこれはーー「絵に描いたよもぎ餅」「絵に描いた豆餅」でも良いのか。洋菓子が広まっているこの現代、「絵に描いたチーズケーキ」でも良いのか。なんなら英語に合わせて「絵に描いたパイ」「空のキャンバスに描いたパイ」でも良いのか…。さらには、英語を外国語として使う私からすると、a pie in the skyは、an apple pie in the skyや、a pumpkin pie in the sky、はたまたa red bean rice cake depicted in the skyでも良いのか…などと、思われてくるのである。

 

ネイティブではない人は、外国語をネイティブと違う形で習得しているというのは本当にそうで、大阪に住んでいる英語圏出身の外国人(そのほとんどが日本人女性と結婚している)の集まりに参加した時に、強くそう感じたことがある。大阪の京都寄りの地名に放出というのがある。日本で育って日本語教育を受けて漢字を日本の小中学校で習った人にとっては、これはほうしゅつとしかまず読めないであろう、と思われる。ものすごく読みづらい大阪の地名の一つである。四條畷(しじょうなわて)も難しいが。

この、日本語がそこそこ話せる、大阪歴が10年、20年になる英語ネイティブの男性たちと関西の地名の話になった時に、まず四條畷は、漢字も難しいということで見解が一応一致した。次に放出。しかしこれは全く同意が得られずだった。確かに漢字自体は難しくない。でも小中学校で訓読み音読みを習った身としては、めちゃくちゃイレギュラーな読みで、読めない。だが、外国人で大人になってから大阪で日本語を学んだ身からすると、だってそれは「はなてん」でしょ、駅名でしょ、そういうもんでしょ、という反応だったのだ。逆に、私が放出の読みがなぜイレギュラーで難しいと思っているかが単純に感覚的に理解できないようだったのだ。

だとすれば、放出が当たり前に「はなてん」と読むと思っている日本語話者が使う日本語、書く日本語はもちろん、私のようなネイティブで日本語で「正しく」書く教育を職業教育も含めある意味excessiveに受けてきた人間の書く日本語とは随分と違った広がりを見せるのだろうなあ、と、思うのであった。

私が書く英語に関しては、もうちょっとというよりもうだいぶ鍛錬が必要だが、それを経た後に、自分が紡ぐ英語が、放出を難しいと思わないようなある意味自由でよりプラクティカルな向き合い方を反映した何か面白い形のものであったらいいな、と、思ったりするのである。今の所は、a pie in the skyを何パイにするか、和菓子に変えられないか、マカロンの方がカラフルでビジュアル的には空の青色に映えるのでは、などと想像するくらいのものなのであるが。でもまあ、餅の方が実は洋菓子より好きだから、絵に描いた餅と融合するのが自分の感覚的には一番合ってるなあ。

ターミノロジー学とツールと、編集と。

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仕事で必要になったことから、ターミノロジー学に関する本を読んでいる。

なかなか面白い。ターミノロジーは英語で書くとterminologyとなり、"term"という用語に関する学問、と捉えることができると思う。検索、翻訳などをスムーズに行うために役立つ学問の分野で、図書館学などとも近い。

また、用語を分類する方法などについて考えることから、言語学との隣接分野なのだけれど、違いもあって。基本的に言語学と違って文脈は加味せず、概念にフォーカスして考えるそうだ。その辺はヴィトゲンシュタインとか哲学的な要素も入ってきてしまうけれど。。

実用的なことでいうと、電子辞書やオンラインシソーラスのベースにあるもので、例えばカナダで英仏、オーストリアで数カ国語など、マルチリンガルな環境で発展したらしい。同じ概念の言葉、用語を違う言語でぶれなく紐づける必要が、多言語国家には確かにある。

ぶれなく概念を一つの用語にゼロイチで紐づけるから、人工知能が言葉を認識できるようになるときにも重要で。確かに、ボイスアシスタントのグーグルホームやアレクサなどの進化にも不可欠かも。ボイスアシスタントのアルゴリズムを訓練するには、言語情報をまずパソコンもしくはアルゴリズムが読めるテキスト情報に音声から変換することが必要だけれど、そこからどう言語として認識させていくかは、ゼロイチで紐付けられる形態である必要がるのでは。。と素人考えながら思う。

そしてもちろんターミノロジー学は、辞書を作ったりオンライン類語辞典を作ったり、翻訳メモリやマシントランスレーションには不可欠な基礎となる部分であり。。

私は言葉や文章に興味を持ち続けて生きてきて、その周辺で仕事を長いことしているけれど、言葉そのものや用語そのものよりもストーリーやナラティブへの興味がずっと強かった。でもこのターミノロジーのことをかじってみると。。パソコンやスマートフォンが普及することで人が使う言葉や書く文章が変化したように、文章や言葉がそれを紡ぐツールから影響を受けることは大いにある。同じような文脈で、一言語内だけでなく他言語への置き換えについては、ターミノロジーの管理の仕方によって、特定の言語内で今後も使われ続ける言葉、使われなくなっていく言葉が生まれるのだろうな、と思う。

例えば明治や大正の頃に西洋から入ってきたタームで日本に概念がないまま無理やり訳された用語はぎこちない感がある。その頃と比べて情報技術の変化によって、科学技術などに関する新しい概念は当時より素早く違う国や言語に伝わるようになったと思うけれど、でも文化的に、違う言語において存在しない概念というのは存在し続ける。ターミノロジー学はそういった概念が当該言語にない場合にどうアプローチすべきか、といったことも研究の対象となっているそうだ。

 

私はつい先月まではイーラーニング、オンライントレーニングを企画して、ナラティブを考えてオンラインビデオやオンラインテストを作るという仕事をしていた。現在は多言語の翻訳プロセスにおいて、翻訳メモリーやマシーントランスレーション、タームデータベースをどうやって最適化するか、といった仕事に携わっている。

なんかえらい違う畑の仕事に就いたね、と言われることもあるのだが、私の中では、コンテンツや文章を生み出す部分に関わる仕事、ということでは変わっていない。そのスケールや、成果物の種類や、関わるスタンスが違うだけ。随分大きな違いとも言えるかもしれないが。

元々は記者や編集者、コピーライターとして純粋に文章を書くところをやっていたので、それと比べると何となく遠くに来たな、という感じがあるのはまあ、うなずける。でもね、やってることは一緒なの。自分の中で。編集で企画を立てて、企画を通して、企画の具ー写真や記事の一部やデザインを内部や外部の人にお願いして、撮影場所を押さえ、全体を進行させながら自分で記事も書く。企画を考えるのは時間がかかるけど、面白いアイデアが出て来たときはやった!って思うし、それを形にしていくのはしんどいけど、楽しい。形になるとうれしい。

基本的なスタンスは本当に10年以上前に紙の媒体を作っていたその時と変わっていなくて。でも自分では意図せずに、少なくとも一回は、時代の波に乗ったのかなと、今振り返ると思う。紙媒体の衰退が言われる中で。でも衰退衰退と言いながら、縮小しつつも生き残ってはいるけどね、紙媒体。

それはそれとしても、ここ十年で私は完全にオンラインのコンテンツを作る人になった。ここ数年ほどで、言語も日本語フォーカスから離れた。日本語フォーカスから離れたい、という日本語の文章読むのも書くのも大好きな自分からするとアンビバレントな思いは、シンガポールで働いていた2010ー12年にさかのぼるのだけれど。

自分の中で大きな変化だな、と思うのが、ライター時代には文章が成果物の中心だったのが、ツールの進化とともにツールをどう使えば自分の作りたいコンテンツをそれにより近い形で実現できるのかを考え、実行するようになったこと。ナラティブやストーリーを企画として紙の上で考え、それがストーリーとして形になっていた仕事と比べると、今考えている企画は、世の中に出るときにはストーリーの形はしていないかもしれない。でも、こういうことを実現したくて、手元にこの材料とこのテクノロジーがあって、どういう筋書きを描けばその企画が実現できるのかを、考えている。それって、私にとってはやっぱりナラティブなんだなあ、ある意味、と思う。

常に二、三年で違うことをやりたくなる熱しやすく冷めやすい私だが、今は、言葉やターム、文章とテック、ツールを組み合わせてうんうん考えるのが仕事で、難しいんだけど、結構楽しいみたい。文章に気持ちを入れたりするのではなくて、マクロで言葉のかたまりを動かしていく、感じなので、今更高校数学の箱ひげ図とか、統計の勉強とかしたりして。数学の証明って、高校の時好きでも嫌いでもなかったんだけど、もうちょっと興味持ってやってたら楽しかったのかもな、と思ったりする。どうかな。

 

 

共産主義とリオの話

彼との出会いについて、鮮明に覚えている。

たぶんある程度美化されてしまうし、良いところだけ覚えていることもあるだろうけれど…。私は、シンガポールのワーキングビザの更新ができなくて、ある意味失意のまま日本に帰ってきたところだった。寒い、大雪が珍しく降った東京へ。

関西出身の私にとって、出張では何度も来たことがあっても、初めて住む東京だった。

シンガポールを去る際には、恋愛とまでも呼べないようななんとなく荒んだ感じの数ヶ月の付き合いだった外国の人とパッタリ別れていて、東京には知り合いも友達もあまりいなくて、寄る辺ない感じだったのを覚えている。その元彼から、知り合いの中で最高に面白くて最高に頭がいい友人が日本に遊びに行くから案内してやって、と連絡をもらったのが、彼だった。

その時すでに、彼はかなりの数のブログを投稿していたので、実際に東京で会うまでにブログを読んで、その中のミニマリズムノマドライフについてのポストが、ものすごく響いたのだった、ものすごい美しく、しかも生き方が潔くなんと聡明な人なのだろう、と。

http://semi-adventures.com/2013/03/things-i-do-not-have/

 

会ったのは東京駅で、蕎麦屋さんに行った。蕎麦がきを注文して、初対面だったけれどすごく色々な話をしたー共通点がいくつかあって、初対面と思えないくらい話が弾んだ。共産主義にゆかりがあることや、ブラジルに行ったことがあること。彼はハンガリーで生まれ育ったので、小学生の頃にソビエト連邦が崩壊して、社会がガラッと変わったー例えば、第二外国語はロシア語が教えられていたのが、次の年からロシア語の先生がいきなり英語を教えないといけなくなった、など。私は父母が京都の共産党で出会ったという話をした(その頃は活動がすごく盛んで流行りのようだったのだ)。

そして何より強烈だったのが、彼のブラジルや南米での暮らし方、働き方だ。ノマドな働き方、というのは日本でも一時期話題になったが、彼はその先駆けだった。シンガポール国立大大学院でPhd論文を書いていた頃から、専門分野コンピュータサイエンスという化学のように実験装置などがいらない分野だったために、インドにしばらく滞在していた時に大学に戻らなくても事足りることに味をしめた。Phd論文をを2年半という短い時間で提出してからスウェーデンの大学にポスドクとして籍を置きながら、2年半に渡って南米を、9キロの荷物だけを自身の全財産として携行しながら旅しながら働き続ける(ちなみに飛行機に乗るときは荷物のチェックインは絶対にしない派で、9キロの荷物はギリギリ持ち込んでいたそうだ)。

ブラジル・リオデジャネイロにファベーラというスラム街がある。学生時代に3週間ブラジルを旅した私は、現地の友達がリオを案内してくれたとき、夜にファベーラの光を遠くから見て、無数の光が灯っているさまを夜空の星のようにちかちかして綺麗、と強烈に感じたことを覚えている。その一つ一つが生活の光であることは、まるで幻想のようだった。

そんな私の平和ボケな感想とは裏腹に、彼は半年間、ファベーラ「で」生活しながらコンピュータサイエンスの研究を続けた。一体どうやってファベーラに住むことになったのかと問うと、ファベーラの中では縄張りがあり、それぞれにドンのような、酋長のような有力者が存在する。皮肉なことにファベーラでもすでにワイファイは普及していたが、その酋長は、自分の縄張りのワイファイが機能しておらず、困っていた。そこでーそのワイファイを直してくれたら、しばらくそこに置いてくれる、という「取引」を、彼は持ちかけられた。一度はアメリカのCIAからも高額のオファーをもらったことがある(受けなかったが)彼にとっては朝飯まえのことで、コードを たやすく解読し(cracked the code)、その縄張りのバラックの上に彼自身のテントを設営する権利を得た。

それで、一体ぜんたい酋長とどこで出会ったの?と尋ねると、その答えは何ともはや、クレイグスリスト。クレイグスリスト(https://tokyo.craigslist.org/)とは、オンラインでいらないものを売り買いしたり、ルームメイトを探したりできるコミュニティサイト。日本ではそれほど知られてはいないが、欧米や英語圏ではよく使われている。

なんともはや、想像だにしない冒険譚のような数年にわたるノマドライフ(その間大学や研究機関に所属し続け、無職であったことは一度もないという)のワイルドな話のオチが、クレイグスリストとは。あまりにも華麗で段差のあるオチが用意されている話の展開に、私はすっかり引き込まれてしまったのだった。

 

 

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東京・目黒にある寄生虫館に一緒に行った。寄生虫の英語、パラサイトをこの時知った^^

 

 

映画「MERU」、見知らぬ場所 "Unaccustomed Earth" ジュンパ・ラヒリ/Jhumpa Lahiri著 

「虫の知らせ」というのは果たして、実際にあるのだろうか。日本語では虫が知らせてくれるのか、じゃあ英語の世界では?Premonition、forebodingなどと言うらしい。。どうも虫は関与しないらしい。

 

MERUという映画は、ジミー・チンとエリザベス・チャイ・バサヒリイ監督の、ヒマラヤにあるMERU峰の中でも難度の非常に高い未踏ルート、シャークスフィンに挑む登山家たちを追ったドキュメンタリーだ。ジミー・チン自身がコンラッド・アンカーというアメリカでは有名な登山家と、若手のレナン・オズタークの三人でチームを組み、シャークスフィンに二度挑戦した数年間を描いている。ジミーは中国系アメリカ人、チャイは香港系の母とハンガリー人の父を両親にもつやはり二世のアメリカ人だ。 

 

トレイラーの強烈なキャッチコピーは、"It was worth the risk, it was worth possibly dying for." 

www.youtube.com

 

https://www.youtube.com/watch?v=YvS6O9lVkkg 

映画は、山のシーンだけではなく山に挑む人たちの家族や友人との時間やインタビューも挟みながら進む。ネタバレになってしまうのだが、コンラッド・アンカーは、二十年ほど前に登山のパートナーだったアレックス・ロウを、ヒマラヤ登山の際に雪崩で失っている。休憩をとっていたチームを雪崩が襲い、横に走って逃げたコンラッドは助かり、アレックスともう一人のメンバーは縦に走って、雪崩に飲まれてしまった。彼らの体は17年後まで見つからなかったという。 

コンラッドは、残された妻と三人の小さい息子を気にかけて世話をするうちに妻のジェニファーと恋に落ち、結婚する。

映画の中のインタビューで、妻のジェニファー・ロウーアンカーは、コンラッドとアレックスがヒマラヤ(チベット・シシャパンマ)に旅立った日のことを回想してこう語っている。

"Before Alex left, I had this weird premonition. I did not want him go on a climb. I said, you know I am worried, you gonna die in an avalanche, and Alex said, I always come home."

 

Premonition、もしくは、虫の知らせ。

ジェニファーは、 登山家のコンラッドと再婚したがために、夫がその後も何度もリスクを伴う登山に出かけるのを見送る。インタビューの最後に彼女は、カウボーイの方がよかったかもね、とくすりと笑っている。

"It wasn't like I chose and said, okay, I am gonna fall in love with another climber, It just kinda happened.

I still think I may have been better off with a cowboy(chuckle)"

 

 

「見知らぬ場所」ジュンパ・ラヒリ

Unaccustomed Earth Jhumpa Lahiri 

ジュンパ・ラヒリは私の最も好きな作家の一人だ。インド系アメリカ人で、ピューリッツアー賞を最初の作品で受賞している。インド系の人の人生を描いた作品が多い。

この連作短編集もその一つで、「ヘーマとカウシク」という、幼い頃にアメリカで育ったインド系の男女が、大人になった後に育ってきた環境とは異なる場所で再会し恋に落ちる話だ。

そしてこれもまたネタバレになってしまうのだが。。恋に落ちた後、カウシクはインドで今も行われている見合い結婚が決まっているヘーマに、自分について香港においでよ、結婚は取りやめにしたらいい、と言う。ヘーマは葛藤する気持ちを抱えながらも「もう遅いわ」と答える。

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彼はナヴィーンと結婚するなと言っただけで、彼と結婚してくれとは言わなかった。一方的だ、とヘーマは思う。泣いている彼女の隣で、彼は平然としている。これだから写真も撮れるのだろう。

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そして二人はそれぞれの場所へーーカウシクは赴任地である香港に行く前にタイのリゾート地へ、ヘーマは結婚式が行われるコルカタへ向かう。そして、タイ一帯を津波が襲い、カウシクの行方は知れなくなる。そしてヘーマは、ニュースや共通の知人からその知らせを聞く前に、彼が失われたことを強く実感していた。

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私は元の生活に戻ったのです。あなたとは違う道を行った結果でした。(中略)「ニューヨークタイムズ」に小さく訃報が出たのですね。でも、このときの私は、あなたがいなくなっていることを現実に言われるまでもありませんでした。どうしようもない実感があったのです。私の内部で少しずつ形をとっていく細胞の集合体と同じように、もう間違いのない感覚でした。(中略)

あなたの子かもしれない、という可能性は、この子についてはありません。それだけは気をつけていましたから。あなたは何も残さずに去ったのです。

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Premonition、もしくは、虫の知らせ。。だった、のだろう。

そして、彼女は見合い結婚の相手について、このように語っている。

 

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いよいよ挙式なのですが、もう顔を見たくないと思いました。いえ、裏切ったのは私ですけれども、この人が無事に生きていて、ここにいて、これから来る日も来る日も生きていると思ってしまったのです。それでもナヴィーンは、自分では知らないまま、無理やりというわけではないのに確実に、たとえば晩秋の風が最後まで残った葉を枝から引きはがすように、私をあなたから離しました。

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生きることの残酷さというか鈍感さというか悲しくてもお腹が空くのと同じように、現実というこのもう一つの自然は、否応なく私たちを飲み込んでいく。。それは、生きる上では現実的にとても必要でたくましいということで、おそらく正しくさえあることなのだろうな、と思う。

 

Premonition、もしくは虫の知らせ。

どうしようもなくそのようなものを、私も初めて経験した。2019年9月の最終週の日曜だった。いつも行くジムのランチタイムのクラスに行く気がなんとなくしなくてぐずぐずし、いつもとは違う、午後3時頃にいつもとは違うジムに行き、クラスに出た。運動する気があるくらい体調は問題なかったのだが、クラスが始まってから目の焦点が定まらず、チカチカして、目は見えているのに見ているものの輪郭がぼやけ続ける状態が続いた。飛蚊症網膜剥離とはこういう感じかな?と体を動かしながら思っていた。45分のクラスを終えてなんとか更衣室に戻り、さっとシャワーを浴びた後更衣室の長椅子に倒れこむように寝転んでしまった。体が熱っぽく感じられ、1時間以上その長椅子から動けなかった。長椅子の前にはテレビが設置されており、周りの人からは私がテレビを見ている図に見えていたのではないかと思う。テレビでは京都に新しくできたパン屋さんの特集をしていた。。

その日はなんとか家に帰り、葛根湯を飲んで寝て、次の日には熱は下がっていた。この時の私は友人のヒマラヤ遭難を知らず、5日後の金曜日にSNSの投稿を通じてその事実を知ることになる。またさらにその1週間ほど後にインド時間の日曜の12時頃に雪崩が起きたことを記事を通じて知り、それが目がチカチカした日と重なっていることに気づく。驚き、というよりは、「呼んでいたんじゃないかな」という感覚に近かった。それはPremonitionであるのだろうが、虫の知らせという言葉は言い得て妙だと思う。

 

仕事でのくせなのか、これが起こったことから次につなげるには、これの意味は、とつい合理的な思考のフレームにはめようとしてしまう。昨今では特に、数値だけではなくて、振る舞いや行動のパターンなども仕事上のより良いパフォーマンスにつなげるために自分の傾向を分析したり客観的に観察したりしがちだ。

でも、、、「虫の知らせ」は単にそして全的意味で「虫の知らせ」であり、それ以上でもそれ以下でも今の私にとってはないのであり。仕事のようにPDCAサイクルにはめなくてよくて、雪崩と同じく、単にそれが起こったことを自分が認識するしかないものなのではないか、と、感じている。

 

 「エヴェレストより高い山」ジョン・クラカワー ”A Mountain Higher Than Everest” by Jon Krakauer

 「エヴェレストより高い山」ジョン・クラカワー 

”A Mountain Higher Than Everest” by Jon Krakauer

 

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エヴェレストより高い山」を読んだ。

ジョン・クラカワーは、山や冒険好きな人なら知っている(ことが多い)アメリカのノンフィクション作家。「荒野へ」"Into the wild"や、「空へ」"Into Thin Air"がよく知られた彼の代表作。両方とも映画化された。特に「空へ」はエベレストの遭難事故を本人自身が当事者として経験したことをドキュメンタリーとした本で、この本を題材とした映画も複数製作されている。

 

彼自身が登山にものすごいハマった若い頃を過ごし、実際に「デヴィルズ・サム」というアラスカにあるある新ルートを単独初登攀した実績のあるクライマーだった。現在は、ドキュメンタリーはモルモン教信者によってなされた殺人事件など、登山やアドベンチャーに限らないジャンルもカバーしているライターである。

 

その彼の原点とも言えるこの短編集は、超簡潔にいうと(笑)、すごく良い短編集だった。ヨーロッパのシャモニや北米のデナリ、エベレスト、K2など、世界中の有名な山をめぐるエピソードが、本人の体験も交えて、かつ登攀者としての視点も強く保ちながら描かれている。山や冒険への挑戦を通じて命を落とす者も少なくないことも語られる。そして何より、若くて何も自信も実績もなかったクラカワー自身が若さゆえの不安定さを抱えながら、抗いがたい山への情熱に動かされていたことが、彼自身の心情描写から窺われる。単に山の楽しみを描いた作品ではなく、本人の葛藤が山を通じて語られることが、登山経験の有る無しに関わらず、読み手が各物語に惹きつけられる大きな理由となっていると思う。

例えば、ヨーロッパのシャモニで登山前の心情を、彼はこのように語っている。

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「シャモニの休日」

晴れた日の昼下がり、私はシャムのダウンタウンにある「ブラッスリー・レム」のテラスに腰を下ろし、ストロベリー・クレープとカフェオレを前にして、自分はこんな限られた才能で、あまりにも平凡な今の人生から抜け出せるのだろうかを考え込んでいた。

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今となってはクラカワーはアメリカを代表するドキュメンタリー作家だが、駆け出しの頃、もしくは文章を書き始める前はこのような青い、もしくは英語ではgreenかつinsecureな青年であったかと思わされるくだりだ。

 

私も、山が好きだ。とは言っても、本格的な技術が必要なレベルの登山の経験はない。英語でいうとHikiingレベルで、Mountaineeringの領域には踏み込んでいない。日本語で「ハイキング」というとピクニックのような互換があるが、英語のHikingは日本語でいうと登山、の意味合いがある。私は、国内だと槍ヶ岳北穂高岳北岳、赤岳、谷川岳瑞牆山などの3000メートル超の山に毎年登っているし、富士山には標高0メートルから頂上まで登ったこともある(通常は2000メートル超の五合目までバスで行ってそこから登る)。ただ、冬山ではないので難易度は高くない。海外の山にも行っているが、登りやすい山ばかりなので、4000メートル強のマレーシアのキナバル山、台湾最高峰の玉山(3952メートル)などにも登った。どう見積もっても、登山家やMountaineeringからは、程遠い。

ただ。。山にどうしても行きたくなる気持ちは、少しはわかる、、と思う。

高度順応が必要なヒマラヤやエベレストなどにはまだ行っていないけれど、これまでいつか。。機会があったら。。というような気持ちでそういった数週間から数ヶ月以上かかる難しい登山に挑む友人たちを見ていた。

 

でも。この本の中の短編「双子のバージェス」「K2の不幸な夏」などにも出てくるように、チャレンジを含む登山に挑む人たちの何パーセントかは、死ぬ。日常生活で交通事故に遭う確率よりおそらくだいぶ高い確率で。

 

映画にもなったクラカワーの小説「荒野へ」(現代"Into the wild" )は、若いアメリカ人の主人公が、文明社会に疑問を抱き、広大な大自然の中で自分ひとりで生きることができないかを試してみたくて、実際に試してみて、その過程で自然による難しい出来事に予想外に見舞われ、街に帰ることができなくなり、飢餓状態のまま亡くなるという悲壮な最期で終わる話だ。

10年くらい前に私はこの映画を見た。そのときの感想は、「この人、あほやな」だった。裕福な家庭に生まれて、ハーバード大学大学院の入学を許可され、高い学費を親が用意してくれて、恵まれてある意味何もかもを持っているのに、あえてアラスカの荒野を目指し、自然のまさに「ワイルド」さに直面し、自然というものになすすべがなく圧倒され、命まで奪われてしまう。。

青い青春時代ー若者の時はそういったことに憧れる気持ちがあることは理解できる。私も物質的豊かさを追わない生き方に憧れていた若い時期もあったから。でもー裕福な家庭に生まれて良い将来が約束されていてーそれを期待通り生きるのがつまらないと感じたとしても、自分が与えられているその物質的かつ社会的豊かさを軽視するのもまた、若さゆえの傲慢だと感じ、私は、痛烈に「あほやな」と思ったのだった。

 

最近のことだが、私は、今までの人生のなかでいちばん親しい人たちのうちの一人を、山で失った。当たり前かもしれないがーー彼に対しては「あほやな」とは露ほども思わなかった。彼自身がどうしてもやりたいことを実行したことは幸せなことだったのでは、と思うし、そのように信じたいし、信じている。「荒野へ」の主人公に関しても同じことが言えるかもしれない。予想外の悲しい結末に至ってしまったとしても。

彼の死もしくは遭難以来、私が考えていることがある。人間は今の今楽しいのか、幸せなのか、美味しいのか、苦しいのか、悲しいのか、空腹なのか、という感情と今、ここ、の体験に支配されてしまう生き物だけれど、実は、それは人間の認知の一つのパターンに過ぎず、例えば今すごく病気に悩まされていたとしても、1年前健康でとても楽しく幸せな時間があったとしたら、その時間の存在自体や事実は一ミリも薄まらないし、それはそれとして、記憶としてなのか、その空間と時間を満たしたこととして存在し続けるのではないか、ということだ。少なくとも、そう考えることで、私は私自身の人生にも、命が失われてしまった近しい友人や大好きだったけれど既に亡くなった父の人生に対しても、デッドエンドではなくもう少し温かい視点で捉えることができるかもしれない、と思う。それが翻って、自分の人生の素晴らしかったり美しかったりする時間を、過ぎ去っていくものとしてではなくピン留めされたものとして持ち続けて、生きていくことができるなら、と考える。

 

クラカワーは、エベレスト遭難事故に当事者として巻き込まれ、でも自身は生還して、その後しばらくして登山から離れた。そしてエベレストの商業ツアーにルポライターとして参加したことを「人世最大のあやまち」だったと後日語っている。その後彼は、登山に限らず、違うジャンルでのドキュメンタリー作家としてアメリカで高い評価を得るようになる。

私が二十代の時に一緒に仕事をしていたフリーランスのカメラマンは、元登山家で、二十歳になる前、体育会登山部で雪山に登った際に、雪に埋まった友人を亡くした。このカメラマンは、その時から人生を二人ぶん生きると決めて、写真に賭け、二十代で独立した。

 

私はこの人たちのように、事故が起きたとき一緒に山を登っていた当事者ではなく、そんな確固とした覚悟はなく、立派なことも言えない。 逆にいうと、一緒に遭難した当事者であるならば、そのくらいの決意をしなければ立ち直れなかったのかもしれないが。

 

でも、そのように確固とした覚悟や意志を持てず、言えず、立派な振る舞いもできない私も、大切な人たちとの記憶が流れて薄まっていくのに抗い、その時その時の記憶が彼にとって、その人にとって幸せだったのであるならば、覚え続けているようでいたい、とだけは思う。そして覚えているようにすることで、自然はほんとうに厳しく私たちは自然の一部として生かされているということや、また人生にはほんとうにほんとうに限りがあるということを忘れずにいて、自分がまだ与えられている時間にほんの少しだけでもまともに向き合うことに、少しでも意味ある違いをもたらせるようであればいい、と願う。そうすることだけが、今の私にせめてできることだ。